汎スラヴ主義

汎スラヴ主義(〔独〕パンスラヴィスムス(Panslawismus)、〔チェコ語〕パンスラヴィスムス(Panslavismus)、〔露〕パンスラヴィズム(Панславизм))は、19世紀におこった(汎)民族主義運動の一つで、さまざまなヴァリエーションがあるが、大雑把に言えば、スラヴ人の言語的・文化的共通性を根拠に統一国家の建設を目指す運動であると纏めることができる。

旧ユーゴスラヴィア、旧チェコスロヴァキア、旧ソヴィエト連邦(ロシア人・ウクライナ人・ベラルーシ人)など、歴史上は、一部汎スラヴ主義を体現する主権国家が出現したこともあるが、現在では、これらの国家はいずれも消滅し、少なくとも政治的には失敗したと評価されている。

しかしながら、現在の中央ヨーロッパの政治問題の歴史的なコンテクストを理解するためにも、汎スラヴ主義に対する理解は不可欠である。

また、文化的にも現在でもその影響を随所に見ることができる。また、言語的にスラヴ言語が互いによく似ていることも事実である。

その他、現在でも、スラヴ諸国の国旗には白・青・赤のスラヴ三色が用いられていることが多い。ロシア、チェコ、スロヴァキア、スロヴェニア、クロアティア、セルビア・モンテネグロの国旗ではスラヴ三色が使用されている。

歴史

19世紀はロマン主義的なナショナリズムが高揚した時代であり、ドイツでは汎ゲルマン主義(Pangermanismus)により、分裂態であった旧神聖ローマ帝国の領邦国家が統一に向かった。

汎スラヴ主義も19世紀の前半に成立した思想であり、特にスロヴァキア人のヤーン・コラール(Ján Kollár。チェコ語ではヤン・コラール(Jan Kollár))の貢献が大きかった。1848年にはプラハで第一回汎スラヴ会議が開催された。

当時、多くのスラヴ人は独自の主権国家を形成しておらず、オスマン・トルコ帝国、オーストリア帝国(のちにオーストリア=ハンガリー帝国)、プロイセンなどの支配下で暮らしていた。オスマン帝国はトルコ人の支配、オーストリアやプロイセンはドイツ人の支配であり、ハンガリーはマジャール人の国家であるから、スラヴ人は支配される立場にあった。このため、ナショナリズムとしての汎スラヴ主義は、他民族の支配を脱し、スラヴ人の主権国家を求める運動と結びついた。

ロシアは、同じスラヴ人である(が東方正教会ではない)ポーランドを支配下に置いていたこともあって汎スラヴ主義に当初は冷淡だったが、この運動の利用価値を次第に認識するようになり、その後、ロシアも、この運動を都合に応じて利用し、領土拡張や外交力の進展を図った。