ハンス・ケルゼン

Hans Kelsen

ハンス・ケルゼンは、オーストリア=ハンガリー帝国出身のユダヤ系法学者。ヴァイマル共和政期にドイツ・オーストリアで活躍するが、ナチスを避けてアメリカに亡命した。純粋法学(reine Rechtslehre)の創始者として知られる。

ケルゼンは、1881年10月11日、当時オーストリア=ハンガリー帝国の一部であったボヘミアのプラハ(現在チェコ共和国首都)で生まれた。その後、ケルゼン家は帝都ヴィーンに引越し、ケルゼンはヴィーンで成長する。

ケルゼンはヴィーン大学で法学を学び、1911年に『国法学の主要問題』で教授資格を得る。1912年にマルガレーテ・ボンディ(Margarete Bondi)と結婚。1917年にヴィーン大学準教授に就任、1919年には正教授に昇任。1920年オーストリア連邦憲法(Bundesverfassung)の起草を担当する。

ケルゼンは、新カント主義の考え方を基に、法実証主義(Rechtspositivismus。実定法、とりわけ国家制定法に法源を限定する考え方で、伝統的な自然法思想に対抗する立場。立法による法統一や改革が行われている場合に適合的な考え方)を徹底させて、純粋法学と呼ばれる法分野を打ち立てた。

すなわち、事実・存在・認識という「~である(Sein)」という分野と、規範・当為・実践という「~すべきである(Sollen)」という分野の区別を徹底し、規範に関する認識の学問が純粋な法学であるとする。つまり、規範(「~すべきである」という当為命題)がどう「である」かを認識することこそが法学の使命だというのである。

結果として、純粋法学は、正義・道徳(モラル)という考え方を法学から追放してしまうことになる。なぜなら、正義論とは、「規範がどうであるべきか」を論じるものであるからである。ケルゼンによれば、「その本来の、法のそれと異なった意義では、正義は絶対的価値を意味する。その内容は純粋法学によって規定することを得ない。実は、それは一般に合理的認識によって到達し得ないものである。このことは、幾千年の昔から、この問題の解決のために無駄骨を折った人間精神の歴史が証明するところである」(『純粋法学』、横田喜三郎訳、29-30頁、字体・仮名遣いを改めた)。

しかし、このような思想が「法律として制定されればすべて法になる」という危険な思想に転化することは容易に予想がつき、本人の意図がどうであれ、思考枠組としてナチスによる「合法的」な国家の変革が法的に容認されてしまう原因となったことは否定できない。このことは、ラートブルフが第二次大戦後に自然法思想に回帰したことに象徴的に示されている。

ただ、ケルゼンの純粋法学を最も激しく批判したカール・シュミットが、ナチスの思想的な推進役となったことは誠に皮肉である。

ケルゼンは、1930年にケルン大学(ドイツ)に移り、ナチスが政権を掌握した1933年にはジュネーヴ大学(スイス)に移った。その後、さらに合衆国に亡命して、1940年からはハーヴァード大学で教鞭をとった。そして、1973年4月19日に、バークレーで逝去した。

〔主要業績〕

  1. 『純粋法学』
  2. 『一般国家学』
  3. 『社会学的国家概念と法学的国家概念』
  4. 『デモクラシーの本質と価値』
  5. 『法と国家の一般理論』
  6. 『法と国家』

〔研究書〕

  1. ミュラー/シュタフ『ワイマール共和国の憲法状況と国家学―H.ヘラー、C.シュミット、H.ケルゼン間の論争とそのボン共和国への影響』
  2. 鵜飼信成・長尾龍一編『ハンス・ケルゼン』
  3. 長尾龍一『ケルゼン研究 I』
  4. 長尾龍一『ケルゼン研究 II』
  5. 新正幸『純粋法学と憲法理論』
  6. 高橋広次『ケルゼン法学の方法と構造』
  7. 関口光春『ケルゼンとヴェーバー―価値論研究序説』
  8. 佐伯守『法と人間存在―ケルゼン法学とポスト・モダン』
  9. 兼子義人『純粋法学とイデオロギー・政治―ハンス・ケルゼン研究』