フランク王国

フランクおうこく

フランク王国(〔独〕Fränkisches Reich)は、5世紀から9世紀にかけて西ヨーロッパから中央ヨーロッパを統治した王国。この王国が東・西・中に分割されたことにより、現在のドイツ・フランス・イタリアの基盤が形成されたとされ、欧州の歴史上きわめて重要な位置を占めている。日本語では、フランク王国を「王国」、神聖ローマ帝国を「帝国」として訳し分けているが、原語ではいずれも「ライヒ(Reich)」である。

フランデレンを統治していたフランク族のサリー支族のクロードヴェヒ1世(〔独〕Chlodowech I.〔仏〕Clovis Ier(クローヴィス1世)、465年又は466年~511年、在位:481年~511年、クローヴィス)が建国したとされる。クロードヴェヒ1世は、ローマの貴族や領内のローマ人との関係改善のために、他のゲルマン民族にさきがけてカトリックに改宗したことで知られ(クローヴィスの改宗)、その後の王国の宗教的な基盤が決定された。また、クロードヴェヒ1世は、パリに遷都したことで知られ、フランス史では現在のフランスの基盤を築いた人物として位置づけられている。このほか、クロードヴェヒ1世はサリカ法典(lex Salica。「Salicus, Salica, Salicum」はラテン語の形容詞形であり、本来ならば名詞に直して「サリー法典」とすべきであったが、なぜか「サリカ法典」として定着してしまっている)を編纂させたが、これは最古のゲルマン法の記述であるとされ、その後の歴史の中で幾度となく引用された。

クロードヴェヒ1世の家系によるメロヴィング王朝は、宮宰(major domus)であったピピン短躯王(Pippin der Kurze)のクーデタにより、カロリング王朝にとって代わられた。この王朝から出たカール大帝(Karl der Große)は、ザクセン、バイエルン、ロンバルディアを制圧、また、ボヘミア、モラヴィア、クロアティアなども勢力範囲内に入り、現在の欧州統合を髣髴とさせる大版図を実現させた。

フランク族には分割相続の習俗があったが、カール大帝の息子ルートヴィッヒ敬虔王(Ludwig der Fromme)は唯一生き残った男子だったために王国を単独相続した。しかし、その次の相続権をめぐって、ルートヴィッヒ敬虔王の男子である、ロタール(Lothar)・ルートヴィッヒ(Ludwig)・カール(Karl)の間に内戦が生じた。結局、ヴェルダン条約(Vertrag von Verdun)により王国は三分割され、ロタールが中フランク王国(Mittelreich、ロタール王国、Lotharii Regnum)、ルートヴィッヒが西フランク王国(Westfrankenreich)、カールが東フランク王国(Ostfrankenreich)を相続することで妥結した。ここに、現在のイタリア・フランス・ドイツの原型が成立したとされる。

このうち、中フランク王国は、南北に版図が広く伸びすぎて統治に適さず、その北部は東西フランク王国の争奪の対象となる。エルザス(アルザス)やロートリンゲン(ロレーヌ)を巡る独仏の領土紛争の原因は、既にこのときに形成されたものである。