ドイツ国歌

ドイツ国歌(Deutschlandlied)は、ヨーゼフ・ハイドン(Joseph Haydn)が1797年に作曲したメロディーに、ハインリッヒ・ホフマン・フォン・ファラースレーベン(Heinrich Hoffmann von Fallersleben)が1841年に詩をつけて成立したもの。本来1番から3番まであるが、3番のみが現在のドイツ連邦共和国の国歌であると考えられている。このことは、法律で規定されているわけではないが、アデナウアー連邦首相とホイス連邦大統領の交換書簡、ヴァイツゼッカー連邦大統領とコール連邦首相の交換書簡、それに、連邦憲法裁判所の判例が国法上の根拠となっている。

また、ドイツ刑法90a条には国歌侮辱罪(Verunglimpfung der Hymne)が規定されており、集会などでドイツ国歌を侮辱した者には刑罰が科せられることになっている。なお、1986年に、この歌の替え歌を掲載した雑誌が検挙される事件がバイエルン州で起こったが、連邦憲法裁判所は、バイエルン州高等裁判所の有罪判決は憲法違反であるとしてこれを破棄し、同裁判所に差し戻した(BVerfGE 81, 298)。

メロディー

歌詞

Einigkeit und Recht und Freiheit für das deutsche Vaterland!
Danach lasst uns alle streben brüderlich mit Herz und Hand!
Einigkeit und Recht und Freiheit sind des Glückes Unterpfand.
Blüh' im Glanze dieses Glückes, blühe, deutsches Vaterland.
Blüh' im Glanze dieses Glückes, blühe, deutsches Vaterland.

和訳

統一と法/権利と自由を父なるドイツの国のために!
統一と法/権利と自由を求めて、我らはみな手に手をとり、心と心を繋ぎ、兄弟のごとく邁進しよう!
統一と法/権利と自由が保障する幸せ、
その幸せの輝きの中で、花開け、花開け、父なるドイツの国。
その幸せの輝きの中で、花開け、花開け、父なるドイツの国。

沿革

神聖ローマ帝国皇帝を讃える歌

もともと、ナポレオン戦争のさなかの1797年、ロレンツ・レオポルト・ハシュカ(Lorenz Leopold Haschka)の書いた「我らの善良な皇帝、フランツ帝万歳(Gott erhalte Franz, den Kaiser, unsern guten Kaiser Franz)」という詩に、ハイドンがメロディーをつけたものが、この歌の原型である。

15世紀以来、オーストリアのハプスブルク家が「ドイツ民族の神聖ローマ帝国(Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation)」の皇帝に就任することが慣例化しており、当時も、オーストリア大公(Erzherzog)であったフランツ(慣例によりボヘミア国王を兼ねていたので、選帝侯(Kurfürst)でもあった)が、神聖ローマ帝国の皇帝に在任していた(神聖ローマ帝国皇帝としてはフランツ二世と呼ばれる)。

なお、ハイドンは、このメロディーを弦楽四重奏曲第77番ハ長調「皇帝」(Streichquartett op. 76 Nr. 3, Hob. III:77 "Kaiserquartett")の中でも用いている。

《ハシュカの献上した皇帝を讃える歌》

Gott erhalte Franz, den Kaiser, unsern guten Kaiser Franz!
Lange lebe Franz, der Kaiser, in des Glückes hellstem Glanz!
Ihm erblühen Lorbeerreiser, wo er geht, zum Ehrenkranz.
Gott erhalte Franz, den Kaiser, unsern guten Kaiser Franz!
Gott erhalte Franz, den Kaiser, unsern guten Kaiser Franz!

《和訳》

我らの善良な皇帝、フランツ帝万歳!
フランツ帝に、幸せのまばゆい輝きの中でのご長寿を!
皇帝のましますところ、月桂樹の小枝は花開き、栄光の冠となります。
我らの善良な皇帝、フランツ帝万歳!
我らの善良な皇帝、フランツ帝万歳!

《修辞法》

各連とも、中間部のKaiser、Kaiser、Lorbeerreiser、Kaiser、Kaiser、および、末尾のFranz、Glanz、Ehrenkranz、Franz、Franzで脚韻が踏んであり、修辞法的にも美しい歌詞になっている。

オーストリア皇帝の歌

神聖ローマ帝国解体前の1804年、フランツは、大公国(Erzherzogtum)であったオーストリアを帝国(Kaiserreich)に改組し、自ら帝位についた(在位:1804年~1835年。オーストリア皇帝としてはフランツ一世という)。また、1806年には、フランツ帝が神聖ローマ帝国の帝冠を置き、オットー1世以来844年つづいた神聖ローマ帝国は名実ともに終焉を迎えた。

しかし、この歌は、少し形を変えた形で、1826年に、オーストリア帝国の国歌である「オーストリア皇帝の歌(österreichische Kaiserhymne)」として採用され、以後、皇帝の治世ごとに歌詞を変えて歌い継がれた(1867年以降はオーストリア・ハンガリー帝国)。

例えば、次代のフェルディナント1世の治世(1835年~1848年)には、歌詞は次のようになり、1836年から1854年まで用いられた:

《フェルディナント1世治世のオーストリア皇帝の歌》

Segen Östreichs hohem Sohne, unserm Kaiser Ferdinand!
Gott, von Deinem Wolkenthrone, blick erhörend auf dies Land!
Laß Ihn, auf des Lebens Höhen hingestellt von Deiner Hand,
glücklich und beglückend stehen! Schütze unsern Ferdinand!
Glücklich und beglückend stehen! Schütze unsern Ferdinand!

《和訳》

オーストリアの御子、我らのフェルディナント帝に祝福を!
神よ、雲の上の玉座からこの国をご高覧になり、願いを叶え給え!
皇帝が、神の手で皇帝を健康に導かれて、自ら幸せを与えられ、また、民にも幸せを与えますように。我らのフェルディナント帝にご加護を!
皇帝の幸せと民の幸せを! 我らのフェルディナント帝にご加護を!

《修辞法》

各連とも、中間部のSohne、Wolkenthrone、Höhen、stehen、stehen、および、末尾のFerdinand、Land、Hand、Ferdinand、Ferdinandで脚韻が踏んであり、修辞法的にも美しい歌詞となっている。

ファラースレーベンの替え歌

ところで、1806年に「ドイツ民族の神聖ローマ帝国(Heiliges Römisches Reich Deutscher Nation)」が崩壊した後は、ドイツは(領邦国家の上に立つ存在としての)統一国家をもたなかった。その後、ドイツ統一への欲求と、自由・民主を求める反体制運動と、ロマン主義が結びついたようなナショナリズムが盛んとなった。このようなナショナリズムの高揚する1841年、ファラースレーベンが、もともと「神聖ローマ皇帝を讃える歌」であり、当時「オーストリア皇帝の歌」であったメロディーに、現在の詩をつけたという。つまり、「替え歌」である。

ちなみに、当時ドイツには大ドイツ主義(プロイセンとオーストリアの両方を含めて統一する)と小ドイツ主義(オーストリアを排除してプロイセン中心で統一する)の二つの考え方があった。つまり、その後ドイツが歩んだような小ドイツ主義が、当時は確定的になっていたわけではないのである。したがって、現在のように「ドイツ」と「オーストリア」が並列的な概念だったわけではなく、むしろ、「オーストリア」(や「プロイセン」やその他の領邦国家)の上位概念が「ドイツ」だったといえる。

そのことを反映して、プロイセン西端のマース川、東プロイセン東端のメーメル川(ネマン川)、南ティロルのエチュ川(アディジェ川)、ベルト海峡(ユトランド半島とフュン島の間の海峡)といった、現在の「ドイツ」には含まれないような地名も「ドイツ」として出てくる。当時の「ドイツ」がいかに広大であったかを偲ばせる。

《ファラースレーベンの詩》

Deutschland, Deutschland über alles, über alles in der Welt,
wenn es stets zu Schutz und Trutze brüderlich zusammenhält
von der Maas bis an die Memel, von der Etsch bis an den Belt.
Deutschland, Deutschland über alles, über alles in der Welt!
Deutschland, Deutschland über alles, über alles in der Welt!

Deutsche Frauen, deutsche Treue, deutscher Wein und deutscher Sang sollen in der Welt behalten ihren alten schönen Klang,
uns zu edler Tat begeistern unser ganzes Leben lang.
Deutsche Frauen, deutsche Treue, deutscher Wein und deutscher Sang!
Deutsche Frauen, deutsche Treue, deutscher Wein und deutscher Sang!

Einigkeit und Recht und Freiheit für das deutsche Vaterland!
Danach lasst uns alle streben brüderlich mit Herz und Hand!
Einigkeit und Recht und Freiheit sind des Glückes Unterpfand.
Blüh' im Glanze dieses Glückes, blühe, deutsches Vaterland!
Blüh' im Glanze dieses Glückes, blühe, deutsches Vaterland!

《和訳》

マース川からメーメル川、エチュ川からベルト海峡に広がる
ドイツの国が、防衛のために兄弟のように結束を固めれば、
ドイツの国は、ドイツの国は、世界のすべての上に!
ドイツの国は、ドイツの国は、世界のすべての上に!

ドイツの婦人、ドイツの誠実、ドイツの葡萄酒、ドイツの歌声は、
この世でいにしえの甘美な調べを保ち、
生涯を通じて高貴な行動へと魂を奮い立たせる。
ドイツの婦人、ドイツの誠実、ドイツの葡萄酒、ドイツの歌声!
ドイツの婦人、ドイツの誠実、ドイツの葡萄酒、ドイツの歌声!

統一と法/権利と自由を父なるドイツの国のために!
統一と法/権利と自由を求めて、我らはみな手に手をとり、心と心を繋ぎ、兄弟のごとく邁進しよう!
統一と法/権利と自由が保障する幸せ、
その幸せの輝きの中で、花開け、花開け、父なるドイツの国!
その幸せの輝きの中で、花開け、花開け、父なるドイツの国!

《修辞法》

各連とも、中間部において、alles、Trutze、Memel、alles、alles、Treue、behalten、begeistern、Treue、Treue、Freiheit、streben、Freiheit、Glückes、Glückesと、(多少逸脱する部分もあるが、総じて)eで脚韻が踏んであり、全体としての統一性を醸し出している。また、末尾では、1番ではWelt、zusammenhält、Belt、Welt、Weltと、2番ではSang、Klang、lang、Sang、Sangと、3番ではVaterland、Hand、Unterpfand、Vaterland、Vaterlandと、それぞれ異なった脚韻が踏んであり、均整のとれた詩となっている。

ドイツ帝国の成立と国歌制定

プロイセンが、ナポレオン3世との戦争に勝利し、1871年に小ドイツ主義に基いてドイツ帝国(Deutsches Reich)が成立して、曲がりなりにも「ドイツ」の統一が果たされた。統一ドイツの国歌に定められたのは、もちろん、反体制歌であったファラースレーベンの詩でも、オーストリアの皇帝を讃える曲でもなかった。国歌となったのは、連合王国の国歌のメロディーに、ハインリッヒ・ハリース(Heinrich Harries)の詩をつけたものだった。しかし、連合王国の国歌の「受け売り」である以上、この歌は不評だったといわれる。

《第二帝国の国歌》

Heil dir im Siegerkranz, Herrscher des Vaterlands!
Heil Kaiser, dir!
Fühl in des Thrones Glanz die hohe Wonne ganz,
Liebling des Volks zu sein!
Heil Kaiser, dir!

《和訳》

勝利の栄冠を戴いた、祖国をすべる君、万歳!
皇帝陛下万歳!
玉座の輝きの中に、無上の喜びを感じてください。
民族から愛されていることを感じてください。
皇帝陛下万歳!

第一次世界大戦の敗戦と新国歌の制定

オーストリアは第一次世界大戦に敗れた結果、帝政が廃された。したがって、オーストリアでは皇帝を讃える歌は国歌ではなくなった。

しかし、面白いのは、同じく第一次世界大戦に敗れたドイツで、ファラースレーベンの詩をつけた同じメロディーが国歌に選定されたことである。1922年に、このドイツ国歌は、ヴァイマル共和国の国歌に選定された。

その後、ナチスによって1番のみが歌われることとされ、ドイツ統一を願ったファラースレーベンの詩は領土拡張の歌に曲解されることとなった。このような経緯があったため、第二次世界大戦後、一時禁止されるに至ったが、1952年にコンラート・アデナウアー連邦首相とテオドール・ホイス連邦大統領の交換書簡によって、3番のみが事実上の国歌となった。