アエミリウス・パーピニアーヌス

アエミリウス・パーピニアーヌスは、ローマ法学の古典期(法学が大いに隆盛したローマ帝政期)の大法学者で、いわゆる引用法学者の一人。穂積陳重も『法窓夜話』の中で「パピニアーヌスは実にローマ法律家の巨擘であった」と評している。

西暦150年ごろ(一説には140年ごろ)の生まれといわれる。東方のプロウィンキア出身であるともいわれるが、正確な出身地は不明とされる。アフリカ説・シリア説などがあるが、いずれも根拠は薄弱であるといわれる。

法律問題を解説した『質疑録三十七巻(Quaestionum libri XXXVII)』、法律鑑定を集めた『解答録十九巻(Responsorum libri XIX)』、『定義録(Definitiones)』などを著し、古代ローマ法学の完成者となった。

現代のヨーロッパ大陸各国の私法はいずれもローマ法を起源とするため、間接的にパーピニアーヌスの遺産に負っている。

最期

パーピニアーヌスが法学者として活躍していた西暦212年、当時の皇帝であるカラカラ帝(Caracalla、在位:211年~217年)が、弟のゲータ(Geta)を殺害するという事件が起こった。その際、パーピニアーヌスは、皇帝から、元老院と国民の前で、殺害を正当化するよう命じられた。しかし、パーピニアーヌスは、これを拒んだために、カラカラ帝に殺された。

パーピニアーヌスは、カラカラ帝の父であるセプティミウス・セウェルス帝(Septimius Severus)と仲がよく、その息子であるカラカラとゲータの後事を託されていた。

死後

321年、コンスタンティヌス帝は、パウルスとウルピアーヌスがパーピニアーヌスの書物に付した註解を規範として事案に適用することを禁じた。

426年には、東ローマ帝国の皇帝であったテオドシウス二世(Theodosius II.)が、いわゆる引用法(Zitiergesetz)を制定。これにより、事案に適用する規範として、ガーイウス、パーピニアーヌス、ウルピアーヌス、パウルス、モデスティーヌスの5人の大法学者(引用法学者)の著書の拘束力を公式に認めた。

その際、5人の大法学者の間の意見が割れた場合には多数決により、同数の場合にはパーピニアーヌスの意見が勝つこととされた。つまり、同数の場合には、パーピニアーヌスの意見がキャスティングボードを握ったということである。同数で、しかもパーピニアーヌスの意見がない場合には、裁判所の裁量に任されるとした。

当時、ローマ帝国はすでに東と西に分かれていたが、西ローマ帝国の皇帝であったヴァレンティアーヌス三世も、テオドシウス二世の制定した「引用法」を採用したため、「引用法」は帝国の東西を問わず適用された。